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東北の風景

2013年1月29日:投稿者(女性ボランティア)-食器棚のある生活

最近になって、やっと少し落ち着いてきたんですよ。先日、食器棚をもらったんです。食器を入れると、少し”生活感”が出てきて、ちょっと料理をしてみよう……続きを読むにはここをクリック

最近になって、やっと少し落ち着いてきたんですよ。

先日、食器棚をもらったんです。食器を入れると少し”生活感”が出てきて、ちょっと料理をしてみようかなという気持ちにもなって…。

仮設に来た当初は、お墓もあるし、あそこも片付けなくちゃなあなんて、まだ家に帰るような気で考えたりしていたんです。

家が流れているのを見たという人もいるけど、私は見ていないから実感が湧かなくて…。

本当に何も持たずに逃げたから、何もかも借り物で自分の物は何も無くて、ここ(台所)で揚げ物するのも嫌だなと思って、何も作る気がしなかったんですよね。食器もずっとカラーボックスに入れていたんです。

でも、「まだ2~3年はここで暮らすんだろうな、すぐには何も変わらないだろうな」と、覚悟と言うんでしょうかね、そんな風に思うようになって、それで食器棚でも置いてみようかなって…。

現実を受け入れられないままでいるのも辛い。しかし、こうして現実を受け入れられるようになってきて、仮設の暮らしに慣れていくのも、また辛いことなのだと思う。

いろいろなストレスを抱えながらどうにか慣れたとしても、そこに築いた生活や人間関係はいずれ終わりを迎え、また一からやり直さないといけないことが分かっているのだから。

そんな話もして、最後に、


それでもこうやって少しずつ前に進みながら生きていくしかないんでしょうね…。

初めは、何も話す気にはなれなかったけど、今はいろんな人にこういう話ができるようになったんですよ。

2013年2月3日:投稿者(福島県南相馬市在住のMさん)-福島の現況

私の住む福島県南相馬市は、2年前の3月11日のあの日震度6弱の大きな揺れに襲われ、10mにも及ぶ大津波が街を襲い、600人以上の尊い命が奪われ……続きを読むにはここをクリック

私の住む福島県南相馬市は、2年前の3月11日のあの日震度6弱の大きな揺れに襲われ、10mにも及ぶ大津波が街を襲い、600人以上の尊い命が奪われ、6000もの家々が波にさらわれた。

そしてそれに追い打ちをかけた福島第一原子力発電所の事故。

住民はパニックに襲われ、できるだけ遠くにと車を走らせ、幹線道路は大渋滞を起こした。

警戒区域(原発から20km圏内)という名のもとに、1万人以上がそこに家があるにもかかわらず、強制的に家を追い出され、今も帰れずにいる。

その後、市内の居住可能な区域に仮設住宅が建ち、放射能汚染の実態が分かり市内に帰ってくる者、放射能汚染の実態が分かったからこそ、その恐怖で帰れない者、様々な被災者が存在する。

あの日から間もなく2年が経過しようとしている。

しかしながら、状況は変わっていない。

津波で被災した人々は、いまだ仮設住宅暮らし、警戒区域内の人々も自由に自宅に出入りできるようになったものの、いまだ居住は禁止され、仮設住宅もしくは市外に避難したまま、居住できる区域に住んでいた人たちも放射能の影響を心配する人たち約2万人がいまだ市外で避難生活を続けている。

農業もできず、子供たちも戻ってこない。

この街に未来はあるのだろうか?

未来を取り戻すため、われわれ大人が、1歩ずつでももとの環境を取り戻す努力をしていかなければならないと感じています。

2013年3月11日:投稿者(宮城県在住のHさん)-震災 2度目の春に思う事

当時のことを思い起こせば、今生きて居る事に感謝しています。あの時は、生きる気力がなく、それでも年老いた両親の世話をしながらその日を生きて……続きを読むにはここをクリック

当時のことを思い起こせば、今生きて居る事に感謝しています。

あの時は、生きる気力がなく、それでも年老いた両親の世話をしながらその日を生きていくのがやっとでした。

仮設に入っても約5~6ヶ月は本当に毎日死ぬ事しか考えていなかった。

同じ町内といっても見知らぬ土地や人々にどうやって接したらよいのか判らず、いつも下ばかり見ていました。 気が付くと、いつも下の海岸に行って2~3時間海を見つめていました。

周りが暗くなり何回海に入ったことか…。

死にきれず仮設に向かう坂道で涙を流しながら歩いていた。

「苦しかったぁ。」「 辛かったぁ。」

誰にも言えず、ただ泣くだけの日々でした。

人見知りの私は、仮設の人たちと話をする事もできずにいましたが、当時神奈川にいた娘が南三陸に来る事もできず、何かできる事ないかと支援の手伝いをして、

「お母さん、仮設の皆さんにいろんなものを送るから配ってね。お母さんが仮設の人たちと交流ができれば良いと思う。」

と言われました。

一度は断りましたが、否応なしに荷物がダンボール10個届いてどうしようもなくなり、回りの人たちに勇気を出して声をかけ手伝ってもらいました。 それが何回か続く内に、少しずつ皆さんと話が出来る様になってきました。

愛媛の方々と初めてお会いしたのは昨年3月が1回目と思います。2度目は5月。

下ばかり見ていた私に優しく笑顔で話しかけてくれた事、凍りついた心が少しだけあったかくなったのを覚えています。

それから回数を重ねて来てくれましたね。時には大勢で。

「嬉しかったぁ。」

皆さんから温かい声をかけてもらいました。私の凍りついた心を少しずつ解かしてくれましたね。いろんな人達に助けていただいて今の自分が居ます。一人ではないとやっと思えるようになりました。

今ではあの苦しかった時、死ぬことを思い止まってよかったと思っています。

私が今生きていられるのは最初に出会って見せてくれたあなたの笑顔です。心を閉ざしていた私の中にとても暖かく伝わってきました。

愛媛から遠い東北に来るのは大変だと思います。皆様に頭の下がる思いと感謝でいっぱいです。忘れずにいてくれてありがとう。

今年は高台移転の話やいろんなことがあると思います。しっかりと話を聞いて少しでも前へ進める様に頑張りたいと思っています。やっとその様に思える様になりました。

あなたのおかげです。ありがとう。支援していただいている事もですが、私自身あなたに受けた思いはこの先一生忘れる事ができません。

“強くなれ”といつも励ましていただきました。

やっと顔を上げて前を見ることができるようになりました。 あせらず、ゆっくり、少しずつ歩けるよう努力します。

今後も宜しくお願い致します。

…桜の花が待ち遠しいです。
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